『サウダーヂ』富田克也

亀海史明

半径数キロで映画を撮りきってしまう。傾向をそんな風に揶揄されもする「邦画」というジャンルに、この映画が一石を投じることになるのだろうか。『国道20号線』もパワフルだったが、なおいっそう勢いのよいこの新作の迸りに、なにか、後ろ指を指されるような思いもする。

日常を守ろうと、諸手をあげて賛意を呈してまで、それというのが大事なのかどうか。ひとたび訝しむようなことがあるならば、シャッター通りを堂々闊歩するようなこともなかなかできなくなってくる。なぜなら日常は、恥ずべき衰退であり、醜い代物なのだ。代わりといってはなんだが、雨後のタケノコのようなロードサイドの歪さを、そんな風景でも愛せるようになるなどと説いて聞かせる、多々守る、亡霊のような日常がなぜか慈しみの対象になる。愛したくないけど愛したい。中身がなくても外側だけ愛したい。ねじれが生活そのもので、それがそのままうつりこむ。うつる人は、なんだろう、様々な人がいるが、なにを言っているのかよくわかりません。同じ日本語とは思えないほどよくわからない言葉で、不思議となんとなくまわっている日々。誰が言ったか知らないが、借りてきた言葉ばかりが上滑りする。でもそんなデタラメな言葉をもぐもぐと練ってこねては繰り出さないと、まわる日常もまわらない。危なっかしいことこのうえない。

大事にしたい日常だけを撮りたいのなら、もっと安全な映画になる。一方こいつは、少なくとも、月のない夜に閑散とした街を歩くのが怖くなるような、危険に満ちた映画になった。非常にローカルな風景であったものが、内側から壊れていって、できた穴の向こうには世界がある。日本語の「世界」は、どこか遠ざけておきたいような胡散臭さを醸し出す(というのもすでに時代遅れか?)が、Worldはどうだろうか。それがHappyでLove&Peaceなのかどうかは別として、世界をWorldと表す彼らの、在日外国人のその”World”はどういう語感をもって発せられているのか興味が湧いた。そういう意味で、半径数キロの枠を奇妙なかたちで破った、内側から直接外に突き抜けたような映画だったのだ。

かといって、いかに内側を喰い破ろうとも、そうしてようやく発掘した世界が駆け込み寺になるべくもない。映画が終盤を迎えるにあたって、「世界」が綺麗に処理されはしないかとはらはらした。語りは明らかにそのこととたたかっている風だった。世界は今さら埋め戻せない。だからこそ、空族とびっきりの日常とそして世界が共々貫通する不安定を撮りきるのだ。ふらふらと安易な結末に誘惑されながら、なんとか消化不良のエンディングに落ち着いたことを努力と呼ばずになんと言おうか。なおまたこれが邦画なのだから、海の向こうの火事などと夢うつつでもいられない。

さて、国籍混淆、ある種群像劇の様相を示すこの映画を観て、自分の言い分に最も合う人物にめぐり会うこともあるはずだ。だが、掌を返したようにぱたんぱたんと先と後とで態度が変わる。まっとうだと最初は信じたやつの、その最後に言った言葉をちゃんと覚えておいたほうがいいかもしれない。まんまとやられたと思うと同時に、意外にもその意趣返しこそが自分の本音の顕われだったりするのではないかと恐ろしい。裏の裏を読めと互いに強いる、このデタラメっぷりが日本のリアルである。

—それもあとどれだけ持つだろうか。日常の寿命を秒読みされた気分だ。

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映画『サウダーヂ』は、渋谷ユーロスペースなどで2011年秋頃より上映予定。
http://www.saudade-movie.com/

Posted: 20110706
Categories: cinema

『スプリング・フィーバー』ロウ・イエ

久保田雅秋

皆さん誰もが経験あるであろう(とまでいえるかどうかはわかりませんが)、
はじめの数分間でその映画の持つ存在感に圧倒されてしまうというか
心をぐいっと鷲づかみにされてしまうというか。

見上げた曇天の空には、激しい風に無抵抗になぶられる木々。
不安定に揺れる視点とも相まって映像は乱れに乱れながら
やがて手前に長方形の黒い影を捉える
走行中の車のルームミラー、すると一人の男の顔がそこに映りこんだ。

ぼくは今回、この冒頭でそれを感じてしまいました。すごいことが始まる
それを今から観ることができるという高揚の中、物語が展開していきます。

主な登場人物は5人。2組のカップルと1人のゲイの青年ジャン・チョンです。
2人の男は別のときにそれぞれジャン・チョンへ惹かれてしまうのですが、
そのせいで恋人との関係や築いた家庭を壊してしまうことになります。

一方のジャン・チョンが何を考えているのかと言えば、
相手からの愛を受け入れ、それを享受し常に求めているだけで
自身と恋人のことしか見ておらず、その先にいる
相手の本来のパートナーのことなど眼中にないかのようです。
彼は、既婚者の恋人が妻に怪しまれないよう戦略を練っても
「関係を複雑にしたくないんだ」と言って協力を断ります。
しかし、そんな彼の思いとは裏腹に、事態はいつも複雑に
恨みやねたみや悲しみがどこまでもからまっていくばかりなのでした。

春の嵐のように、平穏だった人々の間にやってきて
彼らを暴力的に揺らし混乱させているのは
一見ジャン・チョンであるかのように思えるかもしれませんが、
その実、嵐に弄ばれ折れそうにかしいでいる木々のごときは
ジャン・チョン自身であり、彼がなんらの防備もせず
進んで身を任せている春の嵐とは、沸き起こる原初的な愛の欲望でしょう。

彼がその激しい嵐の中へ突き進んでいくほどに、
彼のあずかり知らぬところで次々に悲劇が生まれていくのです。
やがてそれは彼が育んでいる愛自身にも及び、
最後にはすべてが壊れて霧散してしまいます。

平穏を乱された者たちからの激しい憎悪と暴言、
恋人からの厳しい別れの言葉またその死、
愛を求め続けているだけのジャン・チョンにそれらの
呪わしく泥濘のようにまとわりつく重たい過去が心に、
そして肉体に深い傷となって堆積し
彼を疲弊させ絶望の中へと追い込もうとしています。

彼は愛憎劇の末、首に負った古傷の周りに刺青を施します。
自らの清濁すべての思い出を美しく昇華させるように、
また命を絶った死者に手向けるように、
この作品では特に象徴的に用いられている蓮の花を
彫師に描かせるのです。

ジャン・チョンは満身創痍になりながらも、
まだ愛へと向かおうとしていたのでした。

新しい恋人に愛撫されながら過去の記憶を回想しているジャン・チョンの瞳は
うつろい続ける性(さが)へのあきらめのような無常と同時に、
それでもこの生を、これまで経験した出来事を優しく愛でるように眺める、
深い慈悲の色を宿しているように見えました。

そんなとき彼が心に思い浮かべるのは、やはりこの文章
作品の主題の元にもなった郁達夫の短編小説「春風沈酔の夜」なのです。

「こんなやるせなく春風に酔うような夜は
私はいつも明け方まで方々歩き回るのだった」

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映画『スプリング・フィーバー』は、渋谷シネマライズ他で上映中。全国で上映予定。
http://www.uplink.co.jp/springfever/index.php

Posted: 20101128
Categories: cinema

『海炭市叙景』熊切和嘉

亀海史明

海炭市が特別な都市とは思わない。各地に偏在する都市を描きたかったのがこの作家、佐藤泰志の願いだったろうと思う。しかしながら、どうしてもユニークにならざるを得ない地形を持つのが函館市という場所である。砂州。堆積物でできたこの土地に石炭の産出するはずはないのだから、海炭市はここに存在しないはずなのだが。

僕が炭坑の閉山のニュースを見たのはずいぶん前のことだが、そのころには炭坑なぞとっくに内地に残っておらず、当時としても中央にとってはいささか時代錯誤のニュースであったろう。首都から遠く離れて、時間もまた遠く離れている。すでにないはずのモノがあったりする。だから、この映画に出くわして最初に覚える感情は、ノスタルジーである。

ところが、海炭市に棲む人々は、ノスタルジーとは無縁である。あったはずのものがなくなろうとしている。それが日々身に迫る問題なのだ。それは炭坑でもあったろうし、造船業でもあれば、親譲りの住まいであったり、一式揃わない湯呑みや、どんぶりなのだ。生活は石が風化するようにやさしく消えてゆくなどという幻想を抱いているのだったら大間違いである。昔のものは、唐突に欠けていくものだ。懐かしむ暇などない。

欠ける、という出来事は、それを元に戻せない、という意味で非常に残酷な事態と思う。欠ける、ということの表現にぴったりなのが、映画だ。だから、映画化は小説『海炭市叙景』をコントロールするには具合がいい。しかし問題点がある。スクリーンに映るのは函館市以外のなにものでもないし、時刻はそれを撮影した2010年に違いないのだ。

小説は未完の作品だ。架空の都市に棲む人々の数が多ければ多いほど、その個々の人生が多様であればあるほど、その都市は、生きた街として、より読者に強さをもって迫ってくるはずだったのだ。佐藤泰志の自死をもって海炭市は1990年頃で止まっている。つまりは、いま映画化するということは、海炭市をまるごとノスタルジーに葬る危険があった。

ところが、昔ながらの海炭市を撮るという過ちを犯すまでもなく、当時と変わらない海炭市叙景が、いまもあった、ということになる。欠けることに怯える、ひりひりした緊張感は色濃く、なにより現地で採用したというキャストが素晴らしい。緊張が緩和せず、引き締めに堪え、いまなお欠け続ける地方都市のこの20年は、なんだったのだろう。

それでも年月は堆積すべきなのだ。
かつて、正月といえば、皆が一斉に齢を取る、という特別な意味があった。たとえ個々の街や人々の営みが滞っていたとしても、再び新しい時間を生き直す、という意味付けを与えることができたのかもしれない。
停止した小説の時間から、撮影した函館市の時間から、少しでも先に見える新しい時間が見えればいい。もちろん、齢を取るのはとらえどころのなく、淡々としたものだ。ただし、長く生きなければ新しい時間も見られない。こうして海炭市は偏在する。なにより、営みとして。人によって見える海炭市はずいぶん違うと思う。そういう映画だ。
美しい映画だった。

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映画『海炭市叙景』は、北海道函館市シネマアイリスにて、11月27日より公開。ほか、渋谷ユーロスペースなど、全国でロードショー。
http://www.kaitanshi.com/
小説『海炭市叙景』は、書店にて。

Posted: 20101112
Categories: book, cinema

『シルビアのいる街で』ホセ・ルイス・ゲリン

久保田雅秋

渋谷シアター・イメージフォーラムにて
ホセ・ルイス・ゲリン「シルビアのいる街で」を観ました。

一般的に誰もがイメージする「映画」とはかなり趣の違った作品です。
ホテルで鉛筆片手にじっと物思いにふける一人の若い男、
彼が主人公なのですが、彼のこれまでの事情に端を発して
画面上に展開されるストーリーは
決してこの映画の中心の位置を占めてはいません。

やがて彼は自らの口で、
6年前にこの街で会ったシルビアという女性を探しているのだ
と自らの目的を明らかにしますが、
その女性の間にどんな関係があったのか、
どうして6年もたってからこんな不毛ともいえる捜索をすることにしたのか
何も示されていません。
いつも彼が手にしているスケッチブックの内容など、
思わせぶりな断片はちらちらと映っていますが
基本的にそういったものはすべて
カメラのフレームの外に放っておかれたままです。

この映画の中心にあるものは
撮影の舞台となっているフランスの古都ストラスブールの印象的な町並みや、
そこで奏でられる雑多な生活音、
カフェでのおしゃべり、石の地面を叩く靴音、唐突な市電の走行音
大道芸のバイオリン演奏、物乞いの懇願、行きかう人々の息遣いであり、
主人公の男が次々に目をやって執拗にスケッチを繰り返す
夏の強い光に照らされて輝いている、美しく若い女性たちの表情、後姿、その物腰のすべて
に他なりません。

あらゆる女性が映し出されます、
髪の色、長さ、肌の色、背丈、服装
彼が目に留める美しい女性たちは、すばらしくバラエティーに富んでいます。
ここに至って、ぼくら観客の心に疑念がわいてきます。
彼が探しているはずのシルビアっていったいどんな姿をしていたのだろうか
いや、そもそもシルビアなんて女性が本当にいたのだろうか、と。

シルビアという女性像に縛られているのは
もしかしたらすでに観客のぼくらだけで、
もはや劇中の彼はそこから解き放たれてしまっているのかもしれません。
同じように、物語性という既成概念から解き放たれたこの作品は
どこまでも自由に大きく、美しいこの街を、
そこに暮らす美しい女性たちを
謳歌し讃歌しているように感じました。

- – – – -
映画『シルビアのいる街で』は、渋谷シアター・イメージフォーラムで上映中。全国で上映予定。
http://www.eiganokuni.com/sylvia/index2.html

Posted: 20100909
Categories: cinema

『シルビアのいる街で』ホセ・ルイス・ゲリン

亀海史明

私は外国人なのだ、というのをガラスを挟んで向こう側ではなくありのまま傍に感じる体験をするには、結局自分の身を別の国にまで連れて行かなくてはならない。もちろん、『ターミナル』という場所があり、きのうもきょうも空港に行き交う人がいるわけだけど、あくまでそこは手続きをするための場所でなければならず、パスポート片手に、私は日本人だ、というのを面倒にも繰り返し主張するところでしかない。

運良く空の旅を終え、ふたたびガラス張りのパスポートコントロールを抜け、交通を駆使して、例えばストラスブールに行くことを考える。長年の係争地でもあったここには欧州議会があり、ヨーロッパのあらゆる言語がごった煮の環境が整っている。ガラスのない場所で人々の言葉に耳を傾けるとすれば、ちょうどカフェのテラスが具合いい。

そこで録音機のスイッチを入れる。カメラをまわす。

具体的な映画である。発想がとても具体的だ。
あるものでつくる、あるものから撮る、ということでまったく譲らないから、戸惑うこともあるだろう。
だが、その戸惑いこそが、各々の言葉をまわりの人間がてんでばらばらにしゃべっている体験、私は外国人である、という体験に他ならないのだ。

弦楽器の音、交通の音、後ろ姿でいっそう期待を高める彼の女のこつこつと、靴の音。
すべてが映像のなかに聞こえることが次々とあきらかに示されてゆく。
彼の男が街角を通り過ぎるたびに、別の路地が示される。また隠れる。
男にとっては、勝手の知らない国のモノが、別の言語に吸収されて上滑りしてゆき、ますますひとりで呻吟する。なにかがあるはず、誰かがいるはず、と。
しかし、それすら端から覗くわれわれは、「あるものしかない」という当たり前のことを、俯瞰することができている。

ある中年の男が、随分長いあいだ黙っていて、ついに「否」という。隣の女が、「そう」という。
それしか眼に映らないが、その光景はいろいろな想像をもって言葉で補われる。
純粋にそのことについて自覚的でいることのできる、希有な映画だといえよう。もう一度言葉の使われ方を土台から検分することができるのだから。

僕はこれと似たような体験を動物園でできそうなものだと思っている。そして、優れた動物園とは動物がありのまま行動しているということだ。ありのまま、とは、自然を意味しはしない。中立、とでも言おうか。それから、ガラス張りの動物園に期待はできない、ということも。

複数の言語を不自由なく操れるのなら、と時折夢想したりもするけど、シルビアという名前が執拗に残ったりするもので、そのあたりの苦しさをアタマからつきつける映画でもある。どうあっても、なんとか言葉を補うしかないけど、まあ、そういうものだ。結局は。

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映画『シルビアのいる街で』は、渋谷シアター・イメージフォーラムで上映中。全国で上映予定。
http://www.eiganokuni.com/sylvia/index2.html

Posted: 20100903
Categories: cinema

『息もできない』ヤン・イクチュン

亀海史明

傑作。とりわけ、暴力について。

想像力だけで暴力が理解できるというのなら、なぜ口を閉ざした復員兵とコミュニケーションを図るのが困難なのか。遥か遠くの暴力の世界を、人を殴ったことのない人間がどれだけ再現できるか。これは難問で、だからこそ世界中の映画監督がこの問に挑戦するのだが、この『息もできない』を撮ってしまった監督は間違いなく暴力を体験していて、本当に誰かを殺したことがあるかのようだ。

一方で、暴力を使わずに生活しているようでも、「平気で暴力を使う人間がどこかにいる」という手前勝手な想像をしてしまい、「そんなプロの奴らに比べてこれは暴力でもなんでもない!」といって平然と、「躾」という名の暴力を振るうのは隠すことなく僕らの日常なのだ。ひとつ屋根の下、血を分けた人間同士だとなおさらで、陰惨を極めた躾は人殺しを出したりもするが、それに世間が気づいた時には「理解できない異常心理」という評価が与えられ、ふたたび暴力は世界から切り離されてしまう。
監督ヤン・イクチュンは、そこに介入する。「暴力にプロもアマも存在しない」ことを暴くためにだ。

ヤン・イクチュンは暴力のプロとしての借金取りの役を果敢に自ら買って出る。彼自身が過去に躾の暴力を体験している、という告白を信じれば、この配役での撮影は、最もハードルが高い。躾の暴力を知るわたしと、プロの暴力を演じるわたし。公私混同甚だしく、概してそういう映画は無惨な失敗作になるはずなのだが、キャストが、とりわけキム・コッピの素晴らしい立ち居振る舞いがすべてにおいて監督を助けている。みながみな躾の暴力におかされた人間の心理を余すところなく再現し、Aと言われたらAを否定し、Aを否定されたら、Aをなにがなんでも肯定し…。展開される暴力のもと、こじれる関係に揺れるいじらしさに涙を禁ぜず。

暴力映画にハッピー・エンドはあり得ないから、少しでも仕合わせな瞬間は挿話として間に混ざるしかない。ヤン・イクチュンに対してあまのじゃくなことばかり口走る彼女は、かりそめの家族の風景のなかで「かりそめだからこそ仕合わせなのよ」といわんばかりの限りなく豊かな微笑をする。そんな彼女を前に、息の詰まったようなヤン・イクチュンの顔がフィルムに写っている。ブレスレスの時間はそこにあり、それは暴力を思いとどまる瞬間のごとく、プロでもアマでもなく、混同する以前のヤン・イクチュンの実像がうつってしまっている。

そして、あの力強いエンディングは映画にしかできない。キム・コッピの表情は、「すべてが起きてしまったあと」のものなのか、それとも、「まだなにも起きていないとき」のものなのか。すべての解釈に等しく彼女は対峙し、佇む。そして、「暴力によってなにが起きてしまうのか」ということについて、まったく匿名の、道行く高校生の女の子に立ち返り、こちらに否応なく清算を要求するのだ。

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映画『息もできない』は、新宿武蔵野館、吉祥寺バウスシアター、ライズXほか、全国で上映中。
http://www.bitters.co.jp/ikimodekinai/index.html

Posted: 20100428
Categories: cinema

『さらば雑司ヶ谷』樋口毅宏

亀海史明

爽快。引っかかるところなく最後まで読めました。実に快便という。
さて快便とはまこと不快な語感ですが、だいたい世の中の文章というのは、不快なものが多いように思うのです。
「俺はこんなこともあんなことも知っていて、実は去る時こんなことがあってだな」うんぬん。そんなことを言いたいがために弄される語彙の数々。わたしが聞きたい話は他にあるのよ。
ふんが詰まったような文章はやはり息も詰まって苦しい。というわけで、『さらば雑司ヶ谷』は「開通」する話だった。

山手線の内側は10分そこいらも歩けば必ず地下鉄の駅にぶちあたるようにできている。いかにも十全、丁寧しごくな都市設計だが、それに最後まで取り残されていたのが雑司ヶ谷界隈。この前ちょちょいとその駅に降りてみたのだが、街がまったく泰然としているのに、浮いてる穴三つ地下鉄の入り口。いまだ都電荒川線勢いよく、といった感じだ。
こんな街を舞台になぜこんなヤクザな話が?というのを話し出すのも野暮かしら。外様のほうが地元に詳しいと著者もいうので、うんちく博学は自粛する。とかくちんちん電車は過去の花街大塚界隈へと通うから、猥雑さは想像せよ、と、これまで。

娑婆に戻って「ここは昔とこれっぽっちも変わらねえなあ」と言った矢先に、鼻持ちならない連中が跳梁跋扈しているのを見せつけられて、「あっしは黙っちゃいられねえ」とは、これヤクザ映画の常套手段。それに慣れると、ああこいつはすぐ死ぬな、とか、捨て台詞は言わせてもらえそうだ、とか、邪推してみたくもなる。パターンが決まってるから、つまらない?いや、そこは工夫と試行錯誤の必要なところで。

舞台があれば舞台装置があるように、雑司ヶ谷があればその下を地下鉄やら下水道やらが通っている。そう、なんだかこの話には、装置の話がなかなかうまい具合に織り込まれている。ついでに空模様までいじってやがる。ヤクザな割に、推理が混じる。この想像力。思い当たる節は、使い古しのおもちゃ。遊びに遊んだものは壊したりばらしたりして仕組みを覗いてみたくなる。もう飽きるぐらいに見てしまった姿を、変態的に、穴の奥まで観察する。つまりは、愛。生まれ育った町並みに対しての。それを、肛門を決めて猛烈な快感と、背徳感に託す。すると、起きるはずのないことも起こすことができる。フィクション、妄想の力の限り、雑司ヶ谷が戦場になった!

気取りも衒いも、鼻持ちならない感じもないから、最後まで押し流されるまま読了。もし新時代にも極道があるとすれば、ヨゴレを押し流すくらいのものだろうか。お目汚しいたしました。さらばと言って颯爽と。

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『さらば雑司ヶ谷』は書店にて。

Posted: 20100331
Categories: book

『インビクタス/負けざる者たち』クリント・イーストウッド

亀海史明

とても英語が聞きやすい。それもそのはず、きれいさっぱり米語らしいイントネーションが排されていたからだ。さすが、イーストウッド、その真摯な姿勢は本当に素晴らしいと思う。モーガン・フリーマンのアフリカ英語に感服する。

今回の舞台は、英国連邦の南アフリカ共和国。と、するならば、タイムリーと言えば今年はワールドカップである。しかし、劇中の主題は、ラグビー。英国が誇る学園スポーツ。そして、ストーリーは1995年の”ワールドカップ”を主軸に転がっていく。ワールドカップと言えば4で割り切れない偶数の開催年だというのが、尤もなこと。だから、”ラグビーのワールドカップ”は、ワールドカップの1年後にやっているなんてことはついぞ知らなかった。1995,1999,2003,2007…。世界とやらは勝手にどっかで回っている…?いや、違う。これもイーストウッドの罠なのだ。

イーストウッド前二作は、まさにアメリカの、アメリカのための映画だったと思う。自由と変革。色眼鏡無しで聞けば大変聞き心地のいい言葉に聞こえるこの二大テーマを正面突破してできたのが、『チェンジリング』と、『グラン・トリノ』。それは、“古き良き”なんていう甘ったれた放言に足下を掬われることのない、先の2つの言葉の再生であったと思っている。だからこそ、”True Story”というのを、わざわざ銘打ってスクリーンに流したりするのだ。『チェンジリング』のあとに、オバマが当選を果たし、『グラン・トリノ』のあとに、大統領就任宣誓が行われる。トゥルー・ストーリーである。

さて、もうそんなお祭りから1年が経とうとしている。1年も経てば、「ま、こんなもんだよね〜」という時期だ。別に僕は、先日の米上院の補選の結果に一喜一憂するほどアメリカに惚れてはいないが、医療制度改革に苦しむ政情が、外交を窮屈にしてるのではないか、というようなことは想像してもいいとは思っている。で、『インビクタス』。

とにかく、イングランドに、オーストラリアに、ニュージーランドに、と、極が変われば出てくるフレーズも変わる。そのうち、クリケットなんていう言葉も飛び出してくるのじゃないかとハラハラしたが、さすがにそれはない。代わりに、ちょっとだけサッカーに言及。非常に巧くやっている。
しかし、全二作に比べて政治性があまりにも際立っていて、着地が難しくなってしまった。平易な英語は聞きやすい。ただそれが、どうにも説教臭く聞こえてしまったところは、否定できない。

裏返すと、説教臭さ、というのは、相手にわかるように伝える、で、それは、普遍性ということで、ここでやっぱりアメリカ、というのが、しっかり検証されている。
「おい、内政も重要だけど、もっと外にも目を向けなきゃね」というのが、イーストウッドのメッセージではなかろうか。ついでに、サッカーもいいけど、ラグビーもね。と。これで安心してワールドカップが見られるよ。サッカーだけじゃないんだぜ。がんばってるのは自分の国だけじゃないんだぜ。

ネルソン・マンデラは1990年のきょう、牢屋から出たそうだ。さて、イーストウッドの夢見る、次なるトゥルー・ストーリーとはいかん。続く。

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映画『インビクタス/負けざる者たち』は、現在上映中。
http://wwws.warnerbros.co.jp/invictus/

Posted: 20100211
Categories: cinema

『ライブテープ』松江哲明×前野健太

亀海史明

お正月というと、例年同じ過ごし方をしている。
「あら、いやだ」と叔母がお膳に上がったままの黒豆を片付けながら言う。
もう、蒲田の踏切じゃないの!
そうやって箱根駅伝の最終ランナーを見送る頃は、だいたい、1月3日の午後。

ん?と思い、電車に乗って山手線とは反対側のほうへいくと、そこが吉祥寺。
ん?っていうのは、たぶん、魔が差したのだと思う。

ガード下を抜けて、アーケードを抜けると、やっぱり初詣の行列が見えてくる。
やれやれ、と思うが、案外こういうのは愉しい。
頭を使わずに、「お正月」だなあ、などと、ぼんやりしたままでいられるから。

ところが、そんなさなかに、HDカメラを持った男と、ギターを抱えた男が、境内の入り口に突っ立ってて、ギターのほうが「失楽園でぬいてた」と歌いはじめたとしたら、つかの間冷や水を浴びせられたように目が覚める。
こたつでぬくぬくの正月がすっ飛ぶ。

『ライブテープ』の導入部を端から見れば、そんなものだ。
といって、最後までギターもカメラも、揚げ足を取ったようなことばかりしているのじゃない。
じゃあなにをしているのかといえば、いわずもがな、街を歩いているだけだ。

ああ、あそこの柱に寄りかかったよ。あの自販機は今でも結構汚れてる。いつも横丁をぶらぶらしている帽子のおじちゃんがスクリーンをかすめたわ。(この人、試写会の時にもいた!)
なかなかディテールが細かい映画だ。
なにせ、街を歩いている映画だからだ。
しかし、よくできた街だ。放っておいても、なにかが起きそうな気がしてくる。たぶん、そいつは、道が狭かったり、ひさしで隠れていたり、欲張りにも乗換駅だからだろう。

というわけで、歩いているだけでもだんだん歌いださずにいられなくなった主人公、前野健太は、結局70分の散歩の間、歌い続けてしまったのだった。そしてたぶん、その歌は自然にその街によくなじむのだ。カメラもそんな彼を撮り続けてしまった。
おもいのほか70分ちょっとの時間は短く過ぎるだろう。それは、街を歩いた時の調子と同じだからだ。

できれば、吉祥寺でこの映画に出会うことをおすすめするが、そうは言ってられない話でもある。
ディテールの細かい街に、『ライブテープ』のかかる、そんな夢のような事件がもっとあまねく起こればいいのに。

ひとまず、こうして正月が終わるが、実に魔が差した。
年明け早々、なんだか歩きながら口ずさむ癖がついてしまいそうだ!

- – - – -
『ライブテープ』は、吉祥寺バウスシアターにて、1/15まで!
ほか、全国順次ロードショー。
http://spopro.net/livetape/index.html

Posted: 20100113
Categories: cinema, music

『動くな、死ね、甦れ!』ヴィターリー・カネフスキー

三宅 由夏

カネフスキーは、ただ、見るか、見ないか、というせっぱつまった選択をわれわれにつきつけているだけなのだ。…(中略)…あれこれ理由を列挙したりする暇も奪われたまま、ある種の痛みとともに『動くな、死ね、甦れ!』を見るしかないのである。痛みを避けようとするものは見るな。  (蓮實重彦『映画狂人日記』)

 痛みがある限度を超えると、人は痛みを感じなくなるという。鑑賞後、底知れない大きなものに飲み込まれたまま、しばらく椅子から離れることすら出来なかった。痛みも思考もすべて忘れて、その場にじっとしていたかったのだ。しかし一方で、それは言い訳に過ぎないと自覚していた。私は痛みを追う覚悟もなしに、易々と「見る」選択をした愚か者だったのだから。

鑑賞後しばらくして断片が頭の片隅にチラつく度に、今度は痛みを思い出せない焦燥感に囚われた。蓮實重彦氏の熱のこもった映画批評はそれに追い打ちをかける。しかし、それらに促されるまま、おそるおそる絆創膏を剥がして傷口を眺めると、そこから血がじんわりとにじみ出るように、忘れていた痛みとそれに伴う生温かい懐かしさのようなものが徐々に自らを包みこむ感覚を覚えた。

「少年は極東の町スーチャンから来た みんな準備はいいか?始めよう。」見ている側の戸惑いも無視したまま、それは強引に私たちを巻き込む。そのぶっきらぼうな態度に「子供ね」と言いながらも付いて行きたくなる。ワレルカの傍から、文句を言いながらも離れないガリーヤのように。

終盤にガリーヤを亡くした母親は、悲しみの末に狂乱する。裸で箒を股に挟み、叫びながらぐるぐる回る。そこへ「カメラはあの女を追え、他の者は構うな!」という第三者の声が入り、我々はまたも強引に引き戻される。

フィクションとドキュメンタリーの狭間でカネフスキーが映し出したもの。その境界線に於いては、第三者でいることも、感傷に陥ることも、許されない。だからこそ「よし、ここでいいだろう。」という声によってフィルムは断絶され、その切れ端の接続先を見失ったまま、映画館の椅子にのめり込んで離れられなかったのではなかったか。

動きを止め、ガリーヤと共にワレルカというカネフスキーの分身に寄り添って死に、忘れていた痛みと共に甦るという体験。それがどこから始まって、どこへ収束してゆくのか、わからない。ただ今もどこかしらに体の一部をのめり込ませたまま、切れ端の接続先を求めてさまよい歩くばかりである。

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ヴィターリー・カネフスキー特集上映公式HP 

http://www.espace-sarou.co.jp/kanevski/story/

Posted: 20091228
Categories: cinema

『蘇りの血』豊田利晃

亀海史明

あんまり美しい映像だったので、いろいろと油断してしまった。
ということはつまり、この映画は様々な誤解を生む可能性をはらんでいるということだ。

小栗判官照手姫をひょんなきっかけで半蔵門で観たことがある。
僕は歌舞伎にさほど通じてはいないけれど、初見、ずいぶんと破天荒な筋書きだと率直に思ったものだった。なにせ、ころころと人が地獄に堕ちたり、現世に戻ったりとするものだから、しかしながら題目は確かに古典なので、案外近代に目覚める前の日本人と僕らの想像力はそう遠ざかっていないのかもしれないなと驚いた。
あっちの世界とこっちの世界。よく聞く話じゃないか。

とはいえ歌舞伎はやはり歌舞伎なので、舞台は江戸から東海道。下って相模に熊野、転じて常陸と、これは大いに時の地政学の影響を被る。じゃなきゃ、観ている人もわからない。
ところが映画に東海道も熊野も見えやしない。冒頭のシーンはおそらく下北半島仏ヶ浦。観ている人がわからない場所はもうあまり残されていない。そばを走る国道338号線は、つい近年まで未舗装の国道。脇野沢から自転車で北上し、流汗台を過ぎてなお行く先に鬱蒼と茂る緑に戦き、木陰をかいくぐってようやく眺めた仏ヶ浦は異様に見えた。陸奥と呼ばれるにふさわしい場所なのだが、今じゃ地政学もマトリクスだから、この努力は報われない。

筋書きは両者そっくりだ。人があっさり現世と来世を往来していく。そんな話だから、変に意味を追い続けるとむなしくなる。だから結局皆進んで没頭する。ストーリーに酔う。人の世変われど、生死の境をたゆたうのは極楽なのかもしれない。
それにしても、監督得意のスローモーションが今回も群を抜いて美しい。衣装が特段すばらしい。殺陣もいい。魅入る。鈴木清順の美に近しいものを感じる。世界観の構成が徹底されていて、わざとらしさを感じさせない。
一点気になるのは、オグリの服の文様である。あれは蝦夷の印だろうか。

伝説といえば、源義経も北へと赴き、敵を逃れて不死となった、というような言い伝えがある。
なぜ北なのか、なぜ不死なのか、やはりこれは、東京から離れて考えてみるほかあるまい。
娑婆はもともと極楽浄土の対極に位置する言葉だ。
監督自身、娑婆をどう眺めはじめたのか、そういう観点からすれば、この映画もまた、自伝である。
あっちとかこっちとか、マトリクスとか、そういうのがそもそもないところへ帰りたくなるのも、うなづける話なのだ。地図に載っていない場所が、あの世だとは限らない。ではその答えを導きだせるのかといわれれば、この映画だけではちょっと難しいかもしれない。放っておくと、蝦夷はいつまでも遠ざかるのだ。

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『蘇りの血』は、ユーロスペースほかにて、現在上映中。
http://yomigaeri-movie.com/

Posted: 20091220
Categories: cinema

『堀川中立売』柴田剛

亀海史明

新作『掘川中立売』のあとに、『おそいひと』を観た。
窒息しそうになった。肺がつぶれそうだ。

それから、『堀川中立売』のほうを考えると、難しい。怪作である。
とにかく、この映画を観てひりひりと伝わってくるのは、”もてあます”という感覚。
僕らはいろんなものが余ったままでいる世界を生きている。そして、とりわけ余剰なのは言葉だ。

言葉によって過剰なまでに膨れ上がった情報量は嘔吐を催させ、観るものによっては堪え難い苦痛を感じるだろう。
悪意を感じる。文字が怖い。視線が怖い。鏡が怖い。反復が怖い。
主人公は、その怖さと、もてあました言葉に苛まれていることになる。
この映画のモティーフは、件の秋葉原の事件だという。

「包丁を握る容疑者が苛まれていたのは、余剰感である」
単にそれだけのことに確信を得た脚本が今回の作品のベースだとしたら、
結局、スクリーンに映るほとんどのものは”気のせい”に過ぎない。
腐るほどに情報量が多くて、気持ち悪い。そういった体験は、まさに悪夢に似ている。
『おそいひと』もまた悪い夢だった。

夢は不快で、自分の声や挙動が異様に増幅する。吐き気がする。そしてまた独り言が殖える。
そんな時期は、普通に若さを生きているうちにも体験することであって、
というより、巷に増幅器が溢れていて、増幅器とはこの際、メディアのことすべてを指してしまってもいい、そいつがどんどん扱いにくくなっていて、その使い方を知らずに生きてしまっただけかもしれないが、
でも、たぶん、夢から醒めるほんの少し前のころに、この新作映画に出会ったとするなら、
それはそれでたいそう衝撃も大きいことになるだろう。
夢が夢で、夢じゃないのが生活で、といった線引きをすること。
よそではそれを、通過儀礼とか、なんとか、言うだろうが、
つまるところ肝心なのは、言葉が勝手に増幅していくのをどうやって食い止めるか。ということだ。

結局ほとんど”気のせい”で片付けられそうだけど、そうじゃない部分が確かにある。
窒息するだけで終わってしまう映画ではなく、だからこそ、なんともいえないへんてこな映画になった。
ただのフツカヨイかもしれないけど。

なんだか、古くさい漫画を読まされたようだった。

しかし、幾分トリッキーな世界に閉じ込められても、不自然にならずに演じていられる石井モタコは、ただものではないと思ったりする。

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『堀川中立売』は、ポレポレ東中野、吉祥寺バウスシアターにて来年春ロードショー。
http://www.horikawanakatachiuri.jp/

Posted: 20091204
Categories: cinema

『庭にお願い』冨永昌敬

亀海史明

倉地久美夫のライブを観に行ったときに最初に気になったのは、とにかく、チューニングにかける時間の長いことだった。

人が奔放さを知るのは、なけなしの余暇に自分の思い通りの時間を過ごすことができたときのこと。
だが、なかにはある限度を知りつつも、思い通りにならない地点に敢えて身を置きながら、試行錯誤を繰り返すことに奔放さを垣間みるものもいるようだ。
いわずもがな、彼は後者である。

道ばたで猫をあやし脅し、インタビューを受けながら後ろ手にピアノをたたいたりして、でもそうしたなにかの”ついでに”行う動作のなかにさえ、なにがしかの試行錯誤があるのだろうと思う。閃いたような眼がちらり。
そうして、”ついでに”得た体験が、そのまま歌になってしまうのだ。
とくに関数をはさむことなく、べったりと版画のようにつくられる歌は、不思議な陰影をたたえる。背筋が震える。

通り一遍の解釈ではすまない詞の向こうには、恐ろしいほど多くの日常風景があるように見える。
おもしろいバス、おもしろい秘宝館、おもしろい飲み屋。
では、なにをもっておもしろいと本人は思ったのか。そのことはこの映画を観てもまだわからない。
とにかく、倉地久美夫がどういう風に思われているのかが、だいたいわかったということだ。

カポを削り落としては組み合わせ、好きなようにコードを編み出している彼は、またきょうもチューニングを念入りにやっていることだろう。
そのうち、ギターではないなにか別の新しい楽器を見つけて、また別の限度を探しては、その下でまた別の創作をしはじめる、そんな予感もある。

近々彼はロンドンへ赴き、初の海外公演を行う予定とのこと。
言葉の通じない聴衆が、どっぷりと濃い日常の版画を目の当たりにしたとき、いったいどんな感想を抱くのか、おおいに興味がある。

プレミア上映とはいえ、まだ編集作業の途上といえるこの映画は、おそらくロンドンの聴き手をとらえるだろう。そのとき、倉地久美夫はどうやって奔放になっていくのだろうか。そして映画もまた、封切の日にはまったく別のおもしろいものに変わっているのかもしれない。

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映画『庭にお願い』のプレミア上映を行った「CREAM ヨコハマ国際映画祭2009」は、11月29日まで。
http://ifamy.jp/

Posted: 20091125
Categories: cinema, music

『銀幕と音楽の世界』阿部海太郎

三宅由夏

阿部海太郎がいそいそと照れくさそうに入ってきた瞬間、原美術館の一角にあるその小さな部屋の温度がすこし上がった気がした。彼は、いろんな音が何層にも重なって沁みついたあたたかい空気を身に纏っているようだ。私たちはその内側に入り、安堵のため息をもらす。

それから、一音一音を愛でるような演奏が巨大なプロジェクターに映し出される映像と歩みを合わせるようにして、静かに始まった。

タイ人漫画家のタムくんの繊細な作品や、工夫が凝らされたテレビCM、日めくりカレンダーの可愛らしい映像(メロディオンや和太鼓の生演奏もひとりでこなしていた)やD-BROSの植原亮輔氏と渡邉良重氏の『欲望の茶色い塊』(チョコレートづくしの映像!)など、映像作品自体も質が高く、銀幕と音楽が衝突するでもなく、ゆずり合うでもなく、調和しながら渦巻くように流れていく。

映像という始めと終わりが決まっている一定の質量を持ったものと、生演奏という今ここでしか起こり得ない一度きりのもの

そんな二者がまじわってひとつの作品になる瞬間に立ち会うということは、なんだか少し奇妙な体験でもある。それは、箱の中に丁寧に音をしまうような光景だ。

すべてのプログラムが終わり満足感に浸っていると、アンコールとして溝口健二監督の無声映画『東京行進曲』に演奏をつける試みの再演が突如目の前でなされることに。

この映画はパリのシネマテーク・フランセーズが1999年にそのコレクションの中から発見して修復したものである、といった経緯がフランス語字幕でつらつらと流れると、全体的に物静かでしかしどこか悲劇的な音楽が、セリフに取って代わるように雄弁に語り出した。フィルムの劣化具合や映し出される東京の街並みが時代を感じさせるのに、大げさな身振りや表情でテニスをする俳優の姿と、合間に入るフランス語のセリフ表示と、目の前で行われているピアノの演奏が同時に打ち寄せ、どこに身を置いていいのか困惑する。演奏が終わった後、そこには手に取ることのできないイメージが浮遊していた。

帰りに手に入れた阿部海太郎直筆の楽譜コピーをもとに、残された記憶の中にあるそのイメージにもう一度触れようと、今もピアノに向かって躍起になっている。

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10月28日銀幕と音楽の世界 第二幕@原美術館
http://theatremusica.com/
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html

Posted: 20091115
Categories: music

にせんねんもんだいPARTY!!!vol.4

今野克哉

次の一手を確実に指し示したライブであった。
華麗に、いとも容易く、我々はただただ翻弄されるばかりだ。

にせんねんもんだいのライブを観たのはあの円盤ジャンボリー内の企画として執り行われた「美人レコード祭」以来だった。2007年は何度も足を運びまさに通い詰めた彼女らのライブも、理由あって一年以上訪れる機会がなかったが故に、大いに期待して観た件のイベントの際のライブは、あまりの期待の大きさがガス欠を起こし消化不良に陥ってしまったような印象であったことを正直に書き記しておく。

ところが、それは単なる当日の調子があまりよくなかったせいか、はたまた主役を自らが運営する「美人レコード」に譲ったことによる社交辞令的なものか、真実は知らないが理由はきっと大したものではなく、とにかくこの度の「にせんねんもんだいPARTY!!!vol.4」でのパフォーマンスはバンドが未だ進化の過程にいることを鮮やかに証明したライブであった。

にせんねんファン(もちろん私がそうだ)にとってはおなじみの曲で果敢に攻めた後半部の突き抜けた快楽にも久々に持ってかれたが、特筆すべきは前半部の新機軸。普段はギターで音を重ねていく高田正子女史はいつもの定位置ではなくDJ用に設置されたいくつかの機器の前に立ったまま、ギターのループとは位相の異なるもっと直接的に聴覚を刺激し身体を踊らせる音を連ねていく。その流れのなかで楽器をギターに持ち替えたあとに披露した楽曲においてもその役割を変えることはなく、丹念にギターのフレーズを一つ一つ重ねていく(つまり後半部に見られた)にせんねんもんだいの音楽にとって絶対不可欠な彼女の役割を、いとも容易く解体していく。

気付けば彼女たちはいつも先を歩いている。我々を「いつも通りの彼女たちの音楽」のなかに安住させることなく、予想だにしない瞬発力でときに飛躍を見せる。だから、最後のMCでしばらくライブをやらない(「来年ぐらいにまたやると思います」と非常に曖昧で他人行儀な宣言だった)と知ったときはさすがに笑った。掴みかけたバンドの次の一手を確信させてもらえるのは一体いつのことになるのだろう?

やはり我々は、今も、これからも、彼女たちの自由で華麗な振る舞いに翻弄されるばかりだ。

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10/30(fri)&10/31(sat) NISENNENMONDAI PARTY!!!vol.4 “DJnisennenmondai3D Night” @gallery LE DECO
http://www.nisennenmondai.com/

Posted: 20091110
Categories: music

『パンドラの匣』冨永昌敬

亀海史明

原作はあとで読んだ。
まずはそのことを告白しよう。
そのうえ、原作者が太宰治というのだから、やっかいだ。
劇場を出てその足で、文庫を買って帰ったのだ。

「文化と書いて、それに文化(ハニカミ)というルビをふること、大賛成。」
と、太宰治の出した手紙にある。1946年。
この一文を読んだだけでも快活な感じがするし、時折こういう”しなり”の利く言葉が作品を問わず彼の小説に混じっていたりする。

もちろん彼はそんな言葉をずっと書いていたかった人であろうし、ただ一方で、それがあからさまにならないように呻吟するものだから、彼は人一倍余計な苦労をしていたのだろうと思う。
恥とも遠いハニカミを書くとはこれいかに。
坂口安吾にいわせれば、その苦労は「誤謬の訂正」であり、彼は「不良少年」そのものだという。
ごまかしついでに、おイタが過ぎる。マイ・コメディアン極まれり。欺き欺かれ。破局。

「パンドラの匣」は確かに快活な小説だ。
題こそなにか空恐ろしいものを感じさせるが、破局を問わない小説だ。
生誕100年の好機に、破局を問わない作品が映画化されたことで報われるのは、他でもなく津島修治であろう。
だが、ハニカミを撮るとはこれいかに。

まず、豊穣な小説空間の言葉たちをばっさり切り落とす。
露出過多の映画空間を用意してますますあたりは乾く。その隙を埋めるのは間と呼吸だ。
仲里依紗のあからさまな、川上未映子のニュートラルな演技がいかにも美しい。
彼女らは、すかすかになった小説空間を自由に舞う。
言葉が埋めていたところに、はにかんだ様子が代わりに満ち満ちる。

それでもこの映画がさほど静かだとは思えずに終わったのは、ひとえに主人公の長いモノローグのせい。
手紙を読むようにして流れてくるその音は、津島修治の声を導入したのでなかったか。
映画化に際しての仕掛けはいくつかあったが、もとの小説空間からは「聞こえてこない」言葉が手紙のなかに読めたとき、僕ははっとした。
この映画は誰のもの?誰に宛てたもの?
そんなものは手紙だから、届く人に届けばいいのである。

とまれ、秋である。
昼過ぎの新宿にも黄色い秋の日差しが満ち、「オルレアンの少女」の唄が、高く乾いた空に今しものびのびと響き渡るようだ。

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映画『パンドラの匣』オフィシャルサイト
http://www.pandoranohako.com/

Posted: 20091103
Categories: cinema